#1Raceこむぎとボートと幼馴染み

モータークイーン。 それは、女子ボートレース界の頂点に立つ女性のこと。 あの日からわたしは、モータークイーンを目指している。

初めてそれを見たのは、真夏の暑い日だった。 幼馴染みのとあと一緒に訪れていた海水浴場。 人々が集まり、歓声をあげていた。 「いったい何だろう?」 「わからない、なんなんだろうね」 わたしの疑問を受けて、首を捻るとあ。 「見に行こうよ!」 「ちょっと、こむぎ!」 わたしはとあの手を引っぱるようにして、海岸線に集う人々の間をくぐり抜けていった。 「うわ……」 目に飛び込んできたのは、エメラルドグリーンの海。 そして、目の前を高速で通過していく、六つの鋭角的なシルエット。 骨まで響くような轟音が襲い掛かってくる。 「すごい」 七歳まで生きてきて、未だかつて目の当たりにした事のなかった光景に、思わず驚きの声をあげてしまう。 「ボートレース」 隣で、とあが呟いた。 「ボートレース?」 「あれが、モーターボート」 とあが指を差す。 一度は遠ざかった轟音がまた大きくなって、再び眼前で複数の影が連続で横切っていった。 切り裂かれた水面に上がる飛沫はボートに生えた白い羽根のようであり、泡立つように残った軌跡はまるで地上の帚星だ。 日光が水面に反射して、視界がキラキラと輝きに満ちている。 そんな中を跳ねるように駆け抜けていくその姿は、この世のものとは思えない興奮があった。 「すごい! 本当にすごいよ!」 端から見ているのではなく、自分が実際にボートに乗って水面を走った時、そこにはいったいどんな世界が見えるのだろう。 そう思ってしまうと、どうしても知りたくなってしまった。 知りたくて、この手で掴みたいと、腕を伸ばす。 でも、わたしの幼く短い手では届くことはなくて。 いつかきっと、あの世界を自分のものにしてみせる。 ――そう、わたしは心に強く刻みつけた。

平和島こむぎ、十五歳。魚座のO型。 花も恥じらう女子高生であり、恋に恋するお年頃だ。 「まあ、わたしが恋をしてるのはボートにだけどねっ!」 よしよし、とピットの中で搭乗しているボートのモーターを撫でる。 んー、とヘルメットの中で口をチューの形にしたりして。 「いきなりどうした、こむぎ」 こむぎの奇態を見てか、隣のボートに乗っている女子が訝しげな声を掛ける。 「あ、とあちゃん。いやね、やっとここまで来たんだなぁって感慨深くなっちゃって」 これまでの事を思い、しみじみと呟くこむぎ。 これがヒーロー番組ならアバンタイトルで軽快なBGMと共にドラマのあらすじが語られるタイミングだ。 生まれ故郷の離島、凪沙島から中学卒業に伴って家族から離れて、本土へやって来たのが、つい一ヶ月ほど前。 目的はこむぎが今所属する部活、ボートレース部のある海月女子学園に進学するためだ。 「こむぎはあの日から、ボートレースに憧れていたものな」 「それはとあちゃんも一緒でしょ?」 「うん、違いない」 とあも優しく、ボートを撫でた。 あの暑い夏の日。 凪沙島の沿岸で行われていた特別レースを二人で見た時からずっとだ。 「でも、とあちゃんはわたしをおいてった」 「わたしの方が一つお姉さんなんだから、仕方ないじゃないか」 「一年留年してくれたら一緒だったのにー」 「高校で留年はちょっと、さすがにないだろ……」 とあはこむぎと同じ凪沙島出身である。 年齢はこむぎの一つ上で、家がお隣さん。 小さい頃から一緒に育ってきた幼馴染で、今は海月女子の二年生。 ボートレース部の先輩でもある。 「それはそれとして、上級生に砕けた口調はよくないぞ。この部だって運動部の一つなんだ。上下関係はしっかりとしないとな」 「えー、とあちゃんに敬語とか、わたしの今までの人生を否定しちゃう感じがあるよ……」 「軽いな、今までの人生。でもまあ、こむぎと私ならそういうものか」 呆れるように肩をすくめるとあ。 「それにしても、この水の感じにも、結構慣れてきたなあ。色は違えど、繋がっている、同じ海だものね」 ヘルメットを取って、こむぎは海水の匂いを肺いっぱいに取り込んでいく。 この海月女子学園のボートレース場の水は、東京湾の海水を利用してつくられたものだ。 凪沙島の海とは水の色は違うし、キラキラもあまりない。 生まれた時からすぐ側にあった海とは違う。 それでもここが今、自分がいる場所であるような気がするのは、こむぎが、念願だった競走用のボートに乗っているからこそだろう。 「おい、ボートに乗ってる時にヘルメットを取るんじゃない! まったく、一緒にいるのが私だったからよかったものを」 「ああっ、ごめんなさいっ!」 怒られたので素直に謝り、こむぎはヘルメットを再び着用した。 ボートの上は自由の利く陸上ではない。 何が起きるかわからないゆえ、用心しすぎて困る事はないのだ。 「素直に反省するのはまあ、こむぎの昔からのいいところだな。反省したからといって繰り返さないというわけじゃないのがこむぎだが」 「あう……」 痛いところを突く竹馬の友だった。 「でも、ほんとにごめんね、とあちゃん。お休みの日なのに、自主練に付き合ってもらっちゃって。しかも、下級生のお相手なんて」 「気にするな。私はこむぎのお姉さんなんだからな。ならさ、姉らしい事をやってみせなきゃならないだろう?」 いつもそうだった。 一歳しか違わないのに、とあは何かとお姉さんぶってくる。 一年経っても変わらない。 きっとずっと変わらないのだろう。 こむぎにとってそれは決して嫌ではなく、むしろ心地よさすらあった。 「うん……ありがと、とあちゃん。大好き!」 「う、む……じゃ、じゃあ始めようか」 目の辺りしか見えないヘルメットでも、その奥にあるとあの素顔が照れているのがこむぎにはわかった。 それくらいの、長い付き合い。 さて、とこむぎは気合いを入れてモーターのロープを引き、始動させた。 すると、すぐに骨身に染みるような振動と音が発生する。 この瞬間が、こむぎは大好きだ。 モーターボートという生き物の心臓の鼓動といった感じがする。 自分がこの子に命を吹き込んでいるような錯覚すらあった。 「はじめようか、とあちゃん!」 「転覆だけはするなよ」 「わかってるもーん!」 モーターの駆動音の中、大声で会話をする。 ボートを転覆させたが最後、モーターを分解整備しないとならないので、その日は何もできなくなるからだ。 ハンドルとレバーを握り、二人でピットから離れていく。 さあ、今日も夢のようなひとときの始まりだ。

ボート二艇で競走水面を実際のレース通りに三周して、ピットに戻っていく。 「ふー、お疲れ、お疲れ」 まるでペットか何かのように声を掛けながら、ボートを撫でるこむぎ。 「惜しかったねえ、だよねえ、とあちゃん!」 ヘルメットのシールドを開いて、そんな風に話しかけてくる妹分を見ながら、とあは胸の内に一つの思いを芽生えさせていた。 同じようにシールドを開いて、とあは訊ねる。 「……なあ、こむぎ」 「あい?」 「夜、勝手に抜け出して、ここで訓練なんてしてないよな?」 「何言ってんの? とあちゃんだって同じ寮なんだから、そんなことわかってるでしょ?」 「そ、そうだよな」 こむぎは入部してまだ約一ヶ月。 そのうち半分以上は、基礎体力作りとモーター整備しかしていない。 ちゃんとボートに乗ったのは、一週間と少し前。 中学生になる少し前から、こむぎは父にねだって買ってもらった子供用のジェットスキーに乗っていたとはいえ、それは、 モーターボートとは似て非なるもの。 操作だって、最高速度だって、全然違う。 実際にこむぎがハンドルとスロットルレバーを握ってボートを操る経験はまだ浅い。 なのにこむぎの操縦といえば、明らかに経験に釣り合わない、大胆なものだった。 あくまで練習周回。 模擬戦のようなものだ。 それだけにとあは、本気を出すつもりではなかった。 最初の第一ターンマークを回るまでは。 そこで、予想外のことが起きてしまった。 そもそもスタート時、大抵の新入生は陸地とは違う感覚のせいで加速するのを怖がってしまうもの。 なのにこむぎは、自信を持ってレバーを強く握ったのだ。 フライングはなく、スタートは正常。 そのままとあはこむぎに、第一ターンマークまでも先んじられてしまった。 それでとあは一年先輩としてのプライドに。 ボートレーサーとしての魂に、火がついた。 まだまだこむぎの旋回は危なっかしかったりするし、駆け引きなんてあったものじゃない。 でも、なかなか追いつくことが出来なくて—— それはこむぎが、水とスピードを怖がっていないからだ。 加えて、平均に満たない身長による体重の軽さもあるのだろう。 ボートレースにとって、軽さはそのまま速さに直結する。 結果、直線での伸びがいい。 とあが得意なのは伸び足だ。 なんとか直線で追い付こうとしたのだが、なかなか追いつけない。 しかし、三周目の最後のターンでこむぎが外に膨らんだ。 その隙に内を差すことが出来て、そのままゴールイン。 本当にギリギリの、とあの勝利だった。 一年前、自分が新入生だった時、あんな風にボートを動かせただろうか? とあは考える。 答えは、否だ。 それに何より—— 「んんー! やっぱり楽しいね! とあちゃん!」 レース中、こむぎは本当に嬉しそうに走っていた。 幼い頃からこむぎの性格をずっと見てきて、それでもなおとあは、その笑みが、その姿が、眩しいと思った。 と同時に、末恐ろしいものを感じて、ぞっとしてしまったのも確かだ。 この先にあるインターハイや、プロのボートレーサーになった時、自分にとって最大の味方であり、最大のライバルにも なるのは、もしかしたらこのこむぎなのかもしれない、と。

「はー、モーターボートはいいねぇ……ああ、ずっとここに住んでいたいくらい。競走水面で暮らしちゃダメかな? あ、

その場合の食糧の買い出しは、とあちゃんよろしくー。ピーマンは、もちろん抜きで」
すでにヘルメットを外して、ボートに頬をスリスリしているこむぎの姿を見ると、まったくそんな風には見えないけれど。